不破家華岡流手術記録の検討

不破為信(ふわ いしん)親子二代の業績

   この章は日本医史学雑誌四十二巻第一号六十一頁から七十六頁に掲載された論文「不破家華岡流手術記録の検討」について、その後新たに発見された十三枚の手術絵図の所見を加えて改変したものである。


◆はじめに

   華岡青洲は手術手技を『華岡家治験図』などに見事に記録させている。多くの門人達もその手技をまねて記録を著していると思われるが(1)、実際にその手術記録が残されているのは少ないようである。華岡青洲の高弟の一人であった三嶋良策(2)(後に不破為信則明(廉齋)と改む)、およびその嗣子不破為信惟治(杏齋)は美濃中島郡不破一色村にて華岡流の手術を行ない手術記録を残した。本研究ではその記録を分析し当時の医療内容を検討するものである。

◆不破為信父子について

   不破家に残された手術図資料は百八枚で、これを患者の名前、居住州、郡、年齢、性別、罹病期間、病名、手術年月日、術者名別に表二に表わした。記載のみられない項目は空白にしてある。一番から八番と、十番の症例には術者名が記載されていないが、為信廉齋の帰村年月日から推測して同者の手術であることは間違いない。家史によれば為信廉齋は安政六年(一八五九)四月に医業を退いているが(3)(表一)、表二の手術番号三十八および三十九番の症例は廉齋と杏齋と両者が記載している。表には杏齋の所見を記した。従って表の三十八番以降が息子の為信惟治(杏齋)による記録である。症例七十一の術者間崎周治は為信惟治の実弟であり、尾張知多郡亀崎村の医師間崎家に嘉永二年九月に養子となっている(4)。

◆資料について

   不破家に残された手術図資料は百八枚で、これを患者の名前、居住州、郡、年齢、性別、罹病期間、病名、手術年月日、術者名別に表二に表わした。記載のみられない項目は空白にしてある。一番から八番と、十番の症例には術者名が記載されていないが、為信廉齋の帰村年月日から推測して同者の手術であることは間違いない。家史によれば為信廉齋は安政六年(一八五九)四月に医業を退いているが(3)(表一)、表二の手術番号三十八および三十九番の症例は廉齋と杏齋と両者が記載している。表には杏齋の所見を記した。従って表の三十八番以降が息子の為信惟治(杏齋)による記録である。症例七十一の術者間崎周治は為信惟治の実弟であり、尾張知多郡亀崎村の医師間崎家に嘉永二年九月に養子となっている(4)。

◆結 果

 患者の概要

   再手術や再々手術を除く全症例数は九十九例で、年齢は一歳から七十八歳(平均年齢四十一歳)まで幅広く分布し、男十八例、女八十一例と圧倒的に女が多かった。患者の居住地は美濃五十四例、尾張三十八例、三河二例、飛騨一例、伊勢一例、近江二例と美濃(五十五パーセント)および尾張(三十八パーセント)で九十三パーセントを占めたが、遠くは飛騨、伊勢、近江の国からの受診者もあり、為信の名は濃州を中心として、近隣の国まで広く知れわたっていたことが窮われる。出自別には武家が五例、岐阜や大垣、一宮などの町からの受診者が九例、他のほとんどは村からの受診者であった。

 疾患について

   疾患は乳癌が七十一例と最も多く、残りの二十八例には頚部肉瘤六例、顔面肉瘤七例、鉄唇五例、膿血二例、足の骨疽あるいは脱疽二例、その他六例となっている。肉瘤には今でいう悪性肉腫も良性腫瘍も含まれていたであろう。

 月別手術数

   手術年月日のわかっている百五例で月別に手術数を求めると、一月五件、二月六件、三月十八件、四月十四件、五月十三件、六月十件、七月九件、八月九件、九月十一件、十月五件、十一月および十二月はそれぞれ二件ずつであり、三月から六月に多く、十一月、十二月は極めて少なかった。

 乳癌について

   乳癌七十例の年齢分布(年齢の不明な八番の症例は除く)は十五歳から六十八歳までで、平均四十四歳であった(図一)。これを一九八五年の日本における乳がん年齢階級別罹患数の分布と比較してみると(5)、両分布とも最頻階級は四十五歳代にあってそのパターンは比較的よく似ているが、本研究での手術例で十五歳から二十歳前半に一つのピークがあるのは注目される。 罹患期間は記載のないものや年来というあいまいな表現のものもあったが、年数の記載されたものでみると、二年から十年で、平均四・二年であった。左右別でみると右の乳房二十九例、左三十一例、不明十一例であった。腫瘤の重さ(二度目、三度目の手術は除く)は五銭(十八・七グラム)から一八○銭(六七一・四グラム)とばらついたが、平均三十六.二銭(一三五グラム)であった(但し一銭を三・七三グラムで換算)。腋窩リンパ核切除例は八十例中二十三例(二十九パーセント)であった。乳癌と腋窩核の摘出の最初の例は症例番号十八番で嘉永元年(一八四八)夏に行われている。二十三番の症例は図として見事に描かれている。 
 再手術、再々手術例についてみてみると、再手術例は五症例(十五、三十八五十二六十六十六番)、再々手術例は二症例(四十八、四十九番)あって、七十一例中十パーセントと比較的多かった。この内、二度目の手術までの期間の短いものは五十二番の三か月、長いものは六十番の三年であった。最初の手術から三度目までの期間は四十八番は九か月と短く、四十九番では五年一か月と長かった。父廉齋の手術例は一例で、他の六例は息子の杏齋の症例であった。

 手術の説明について

   乳癌の手術記録には、症例によっては手術の適否が述べられているものがある(図三)。つまり、自らの経験から、手術によって治るものと治らぬ難治の症のものとを判断し、再患の危険性のある治らぬものについては固辞するが、死活は天の定めるところでもあり、患者本人や親類があまりに懇求するのでやむを得ず行うという考え方である。ここにはすでに乳癌の手術の適否を判断していること、手術について詳細に説明していることがうかがわれ、興味深い。この様な症例は十五、二十三、二十八、三十八七十一番の五例にみられ、この内十五、三十八番の二例は再発し、二度目の手術を行っている。 手術記録は残存していないが、自分の医師としての経歴、患者への説明、手術への考え方などを記載した記録を図二に示す。読み方は以下のようになるかと思われる。 「加納驛蔦屋久四郎なる者の妻、年四十余なり。乳癌を患うこと十有余年也。来りて治療を請う。予之を視るに、癌頭腐爛して既に飜花を作す。其の処小毬の  如し。予、病家に諭して曰う。夫れ乳癌の患為る也。服薬針灸、并びに功無き也。固より是れ和漢の先哲、治を言う有る者無し。而して近世、或は服薬を投じて、妄りに治を言う者有り。是れ盲者の瞎馬に騎りて、半夜、深池に臨む如し。豈に害を致さざらんや。茲に吾が青洲華岡先生は、自ら先賢の未だ発せざるの治術を発明す。以来、其の門に到りて治を請う者、蓋し歳に十を以って等う。而して未だ嘗って治らざる者有らざる也。然りと雖も其の腐潰の証に至る者は断乎として治療を辞す。況んや飜花するものに於てをや。其の故は何ぞや、腐潰飜花之証に中るものは、蓋し毒散漫して胸骨に附着す。故に幸いに治療を得ると雖も、然れども必ず再発の患有り。是れ自然の勢、然らざるを得ざる也。縱使偶たま再患せざる者有るとも、是は病者の洪福にして、醫の功に非ざる也。病家 或は不寮其の再患の時に至りて、往々、罪を医術の拙に帰する故耳。然りと雖も、治療を施さざれば、則ち精神の日々に虚脱に就く。再患の難有ると雖も、居て其の斃を待つと、寧人事を尽くして天命を待つの愈れると孰興。 予、華岡先生の門に遊び、年有り。昼夜 親灸して畧ぼその術を得たり。故不自ら量らずして麻  薬を用いて之を療す。実に天保十年己亥夏五月廿二日也。至如其の再患、予の罪に非ずと言う。」 これはこの当時としては一種のインフォームドコンセントに近いものであろう。

◆考 察

   青洲の乳癌手術患者数は『乳岩姓名録』によると(2)、一六五名の内一五六名と思われる。本研究での不破為信二代の乳癌手術記録は八十症例で、廉齋の三十一例、杏齋の四十九例(この内三十八、三十九番の二例は廉齋の記録もあるが、ここでは杏齋の方で数えた)の記録が残っている。単純に一年あたりの乳癌の平均手術頻度を求めると青洲が年五例、為信二代を通して年一・六例となる。杏齋だけでみると年四・四例となり、青洲の手術数に匹敵する。廉斎については天保の頃の記録がほとんどみられないし、この他にも記録の紛失した可能性も否定できないことを考えると(例えは図二の症例、蔦屋久四郎妻については、手術記録はない)、さらに手術例数は増えると思われ、地方の個人医師としてはかなりの数にのぼる。 
 対象疾患は乳癌が全体の八十一パーセントと圧倒的に多いが、他には肉瘤などの腫瘤形成性疾患が多い。但しこれらの組織や良悪の区別は不明である。他に鉄唇が五例みられるが、その縫合や縮帯方法は青洲の方法(2)に従っている。 

 乳癌七十例の年齢分布と一九八五年の日本における年齢階級別乳癌罹患数の分布とを図一に示し、比較した。勿論、今と当時の年齢の数え方、手術数と罹患数、人口構成、平均寿命など諸々の違いがあって単純に分布を比較することはできないが、両分布とも最頻階級は四十五歳代にあってそのパターンが比較的よく似ていることは興味深い。 

 乳癌の診断については腫瘍が腐潰、翻花しているもの、胸骨に付着しているもの、腋窩に転移しているものは乳癌の証として診断しているが、乳房内の腫瘤のみのものは診断根拠は示していない。図一に示した乳癌手術例の年齢分布をみると、十五歳から二十歳前半に一つのピークが認められるがこれはいわゆる乳癌とは異なった良性乳腺腫瘍(線維腺腫?)も含まれていたのかもしれない(6)。再手術や再々手術例、腋窩核摘出例についての乳癌の診断はまず問題ないと思われるが、これらはいずれも二十歳代後半からみられ、やはり最頻階級は四十五歳代である。当時、青洲は乳癌と乳廱の鑑別については『乳岩弁証』と『乳巌弁』に詳しく述べているが、腫瘍としての良性・悪性の区別の概念はなかったようである。為信は、症例によっては、敢えて乳癌の証という診断根拠を示していることがあるので、このことは逆に良性のものの存在に気付いていたのかもしれないが、そのことにはどこにも触れられていない。 

 乳癌の手術適否についての判断はかなり慎重である。特に腫瘍が胸骨に付着しているものや、腐潰、翻花しているもの、腋窩に転移しているものは予後は悪く、手術の適応でないので固辞するが、そのことを説明しても患者がどうしても手術をしてほしいと希望すれば行っていたようである。また、腋窩に転移しているものは自信をもって乳癌と診断しており、十八番の症例(嘉永元年(一八四八)夏)から腋窩核の剔出も積極的に行っており、その症例は全体の二十九パーセントにも及ぶ。乳癌手術は基本的には腫瘤のみを剔出する、今でいう乳房温存の方法であったが、二度目や三度目の手術ではすべて乳頭部も切除している。 

 この当時の乳癌生存率は不明であるが、外国では十七世紀の頃の三年生存率が五から三十パーセントといわれている(7)。勿論この研究成績から手術を受けたものの生存率の計算はできないが、二度あるいは三度の手術をした患者七名で再手術した時点で生きているとして生存率を求めると、概算で一年は四十二パーセント、三年で二十九パーセント、五年で十四パーセントとなる。これはあくまでも計算上の数字である。 

 麻酔にはいずれの症例にも麻薬(麻沸湯)を用いており、麻酔法は師の青洲の方法に従ったのであろう。また術式も青洲のそれと同様な方法で行われたと思われるが、具体的な術式は記載されていない。これが当時の記述の習慣であったのか、あるいはわざわざ詳細に記載せずに未熟な医師がまねることをふせいだのかは定かでない。 

 患者の分布は美濃、尾張に限らず、他州からも何例かみられ、その診療圏はかなり広く、為信父子の近隣諸国への評判や影響力は高かったと思われる。また対象患者のほとんどは農村出身者であったが、武家の患者もみられるので、この頃藩医でも全身麻酔を用いて手術のできるものはきわめて少なかったことが推察される。 

 近年インフォームドコンセントが注目されている(8)。為信の手術記録には、医師の説明と患者の考えが医師によって記録されているのみで(図三、図四)、匆論患者の承諾の署名はない。ここでは、患者があまりに手術を請うので、手術を行うという立場であるが、青洲は乳癌の症例ではないが、すでに天保三年(一八三二)に、『療治一札之事』として「療治中にもし如何様の異変が生じても一言も申し分ご御座無く候」由の誓約を取っている(9)。同様な証文は安政二年(一八五五)の佐倉順天堂医院における『差上申証文の事』においても「御療治中、万々相果て候ても、聊かも御恨み申し上げる候筋、決して御座無く…」の誓約をとっている(10)。このように「死亡しても全く文句をいいません」の医師有利の証文は江戸末期から明治にかけてとられ、この状況が長く続くことになる。しかし今に比べて手術そのものの危険度が高く、成功率が低かったことを考えるとこのことはその時代の考え方を反映しているのかもしれない。ただ証文をうるために、手術についてかなり詳しく説明をしていることがうかがわれ、医師が勝手に手術を強要し、行っ  ていたとは考えられない。 

 さて、父から子への医業の引き継ぎであるが、症例三十八番および三十九番については廉齋と杏齋と両者が別々の用紙に記載している。父の廉齋は簡略して記載しているのに対し、嗣子の杏齋の所見は詳細である。医業を父から子に受け渡すという移行期に嗣子である杏齋がこれからは自分が行うという自覚が感じられて興味深い。

 ここで不破家華岡流手術図の意義を考えてみたい。もともと青洲は永富独嘯庵の『漫遊雑記』や、杉田玄白の『瘍家大成』に筆写されたハイステルの挿絵「截乳岩図」の影響を受けて、乳癌の手術に取り組んだという(2,11)。そして乳癌のみならず、いくつかの疾患の外科的手術法を確立し、その高弟本間玄調が発展させた。しかし青洲にも玄調にも再手術例や再々手術例の記録図や、図二に示したような乳癌と腋窩核摘出の記録図はほとんど残っていない。西洋においては古くはドイツのスクルテタスまたはシュルテス  (Johannes Scultetus または Schultes,一五九五ー一六四五) の著書『外科百科』には乳房の根元に十文字に太い支持糸を通したのち、一刀のもとに切断し、創を烙鉄によって焼灼止血するきわめてむごい乳房切断手術が掲載されている(6)。青洲の乳癌手術に強い影響を与えたというハイステル  (Lorenz Heister,一六八三ー一七五八) も同様な手術を行っていたようである。一八四四年にはパンコスト  (Joseph Pancoast, 一八○五ー一八八二) が乳癌切断及び腋窩リンパ節切除、一八五三年にはページェット  (Sir James Pajet, 一八一四ー一八九九) が乳癌摘出術を行った。一八六七年にはモーア  (Charles Hewitt Moore, 一八二一ー一八七○) が局所再発は腫瘍の見えない延伸部の取り残しで、癌組織にメスを触れず、全乳腺患側乳房リンパ節を一塊に切除すべきとの外科の原則を発表した。本格的に乳癌の手術が行われるのは一八九四(明治二十七)年、ハルステッド  (William Steward Halsted,一八五二ー一九二二) とマイヤ (Willy Meyer, 一八五八ー一九三二)  が根治的乳房切断術の基礎ともいうべき近代術式を発表してからである(6)。このことから考えると、江戸末期にすでに一地方で全身麻酔のもとに不破為信父子が乳癌とその腋窩核摘出、さらには再々手術までも行っていたことは世界的にみても極めて先進的、かつ驚くべきことでもある。

◆おわりに

   青洲華岡流医師、不破為信則明(廉齋)および不破為信惟治(杏齋)の手術記録九十五枚を分析し、当時の手術の適応疾患、記載法、手術承諾書のことなどについて述べた。緊急時の対応、感染の問題、手術そのものの不成功例など、当時は今とは比べものにならない程、悪い条件であったと思われるが、美濃の一地方で親子二代にわたり、自ら手術を行なって乳癌などいくつかの難治といわれる疾患に対して治療にあたった為信二代の意志の強さに驚くと共に、これだけの手術記録を残していたことに感銘を覚える。今後このような記録が発見され華岡流手術や麻酔法普及(12)の状況がさらに分析されることを望みたい。
この論文の要旨は、平成七年六月、第九十六回日本医史学会で発表した。