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飯沼慾斎

飯沼 慾斎

経歴

飯沼 慾斎(いいぬま よくさい/1783~1865)

飯沼 慾斎は1783年(天明)、伊勢亀山に西山信左衛門守安の次男、西山本平(幼名)として生まれた。名は守之、長順。慾斎は号である。
大垣の医師飯沼長顕に学び、さらに京都の福井丹後守に入門、学成って大垣で開業し、長顕の嫡女・志保と結婚し、嗣子となった。文化元年本草学の大家小野蘭山に入門した。これが植物学研究の発端となった。
文化三年宇田川榛斎に入門し、文化十二年大垣に戻り、再び医業に当たった。また文政十二年十二月二十六、二十七日の両日、弟子の浅野恒進と今村葬所(現大垣市本今町)で刑屍体の解剖を行っている。これが岐阜県下では最初の人体解剖である。
天保三年(1832)五十歳で家業を義弟に譲り、自らは大垣郊外長松に別荘「平林荘」を築いて、研究・著述に没頭した。
著書には「草木図説」(草部前編二十巻、木部後編十巻)があるが、これは本邦最初のリンネ分類法の植物図鑑である。草部は彼の在世中の安政三年(1856)から文久二年(1862)にかけて全二十巻版行され、木部は昭和五十二年に出版された。
墓は大垣市安江町の縁覚寺にあり、大垣公園に顕彰碑が建っている。また生誕二百年を記念して解剖記念碑が建てられた。

逸話

慾斎は化学にも興味を示し、彼がたずさわったと思われる写真が残されている。

特記事項

「草木図説」には自筆の稿本も残っているが、その絵図は美麗である。

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