小森 玄良
経歴

小森 玄良(こもり げんりょう/1782~1843)
天明二年四月、大橋政右衛門の次男として大垣市外渕に生まれ、伏見の医師小森義晴の養子となった。 寛政七年(1795)江馬蘭斎に入門し、二年後伏見に帰り、文化三年海上隨鴎に入門、実地診療に専念した。 文化九年、人体解剖を行い、文政四年再度人体解剖を行い、門人池田冬蔵が「解臓図賦」を刊行した。これがわが国で乳糜管を観察した最初である。 文化十一年京都御池に移り、文政三年典薬寮医師となり、従六位下に叙し、肥後介に任ぜられた。 文政九年、江戸へ往復途上のシーボルトと親交を重ねた。 玄良の門人帳には324名が署名しており、藤林普山・小石元瑞・新宮凉庭らと京都蘭学の黄金時代を築いた。 著訳書に「蘭方樞機」五巻、「病因精義」十巻、「泰西方鑑」五巻がある。 墓は京都・永観堂に、大垣市医師会館前庭に顕彰碑が、大垣市 外渕に生誕之地碑が建っている。逸話
江馬蘭斎に入門して、藤林泰助(普山)と会知る仲となり、以後生涯の親友となった。ついで二人は海上隨鴎に入門したが、普山は蘭語の基礎的研究を主として行い、隨鴎のつくった「ハルマ和解」からより必要な語を選び出して「訳鍵」を出版した。
特記事項
天保十三年仁孝天皇の妹欽宮の診療を命ぜられた。これが蘭方医が宮中に入った最初である。